(8)その他将門遺跡 千葉県
我孫子市日秀 石井戸(いわいど)  日秀周辺に将門の出城がありその飲用に使ったと伝えられる井戸が残っている。以前は水を満々と蓄えていたらしいが、今は草木に埋もれた井戸跡らしいものが残っているに過ぎない。
将門は井戸の側に観音堂を建て守り本尊である行基作と言われる正観音を祀ったと言われる。この観音は将門が討たれた時に激しく鳴動し成田山の開帳の折には血の雨を降らせたと伝わる。
又一説には興世王が上総に逃れる際に将門の守り本尊である観音をこの石井戸に隠していったと言う。
 
 我孫子市日秀 日秀観音   石井戸の側にあった観音堂を中世日出庄の守護日秀弾正佐友治が近くにあった正泉寺の境内に移したものが現在の日秀観音である。この観音の境内に古くから首曲り地蔵がある。将門調伏を祈願した成田山に顔を背けた格好をしている。成田山を嫌う人々によって作られたもので、一説によると成田山への道を尋ねられて知らないよとそっぽを見ている様子を表していると言われる。
 
我孫子市柴崎 柴崎神社  延喜年間柴崎左馬頭本社を建築し、承平・天慶(931-940)年間平親王将門の祈願所として崇敬せられ、故相馬郡守谷城の鎮護社として社運益々日に旺盛を極めたりしも、天慶3年将門亡ぶると共に一時公儀をを憚りしため以て社運頓に衰えたり。その後相馬一族の守護神として社運を回復した。(柴崎神社由緒書)
 
市川市大野町城山  市川市大野にも将門の遺跡が集まっている。市川第五中学校のある丘陵地が城山と呼ばれ、将門の出城があったと伝えられている。校舎裏にある弁天祠はもとグランドの所にあった池の脇にあったもので将門様と称する説や桔梗弁天とする説もある。
この辺りには御門、殿内、殿台などかって城があったことを示す地名が残っている。
 
市川市大野町 天満天神宮   天満天神宮は将門が天慶元年(938)に京都の北野天満宮をこの地に勧進したものと伝えられている。大野町の石井家が所蔵する菅原道真公の像を描いた掛け軸に「そもそも天満宮は 人王61代朱雀天皇御宇 天慶元年 平親王将門公 皇都天満宮 下総大野に移す 別当光胤山本光寺」とその由来を記したものが残されている。(市川市教育委員会説明板)
 
市川市大野町 駒形大神宮   殿内にある駒形大神宮の御神体は白馬に乗った武者像であり将門ではないかと言われている。経津主命と将門を祭神としている(日本教育文化協会 平将門古蹟写真資料集)
この他にも周辺には将門の敵が陣取った山とも将門が一晩で出来上げた山とも言われるデキ山、などの将門崇拝に基ずく伝承地がある。(市川市大野街回遊展パンフレット)
 
市川市菅野 御代の院  天慶の乱に際し京都の菅野氏が将門の調伏を志し、妻と共にこの地に下り、美貌の妻御代の前を将門の妾に差し出し大野城に入れ、内情を探らせた。将門と影武者の区別を秀郷に教えた為将門は亡んだ。
その後菅野夫妻は前非を悔いて剃髪しこの地に留まり将門や戦死者の菩提を弔ったという。夫妻の死後里人がこれを哀れんで墓標を建てた。これが御代の院の起こりと伝えられる。
   
 
 市川市八幡 葛飾八幡宮 将門が天慶年中、戦勝を祈願し神楽を奉納したと言う伝説がある。神社の説明板には将門がこの社に献弊したと記されている。次の八幡の不知森(薮知らず)は旧葛飾八幡宮の跡地とする説もあり説明板にも不知森は当神社に属するとの記載がある。
 
市川市八幡 八幡不知森  天慶の乱に貞盛がここに八門遁甲の陣をしいて将門を破った。以後この薮にはいると出てこられなくなるとか祟りがあるとか言われた。他に将門の影武者がこの森に入って土偶となったとか、平良将の墳墓或いは将門の墳墓があるとも伝えられている。
 
市原市惣社 上総国分寺 将門塔 上総国分寺仁王門の前に移されている将門塔は将門の墓として伝承されていた菊間新皇塚古墳の墳丘上ににあったもので区画整理により現在地に移されたもの。一説では将門の供養碑とも伝えられている。また菊間古墳は興世王の屍を埋めたところとも伝えられている。
しかし塔身には応安第五壬子12月3日の銘があり将門の命日天慶3年2月14日とは違い、更に塔の型式も南北朝時代とと考えられ、将門と結びつく点はない。(市原市教育委員会)
 
 市原市惣社 上総国分僧寺跡  天慶3年将門の残党が追討軍に追われここに逃げ込んだ為追討軍が火を放ち堂宇が悉く焼けたと旧跡の上に元禄時代に建てられた現国分寺に伝えられている。この近くに将門が偽都を築いたと伝えられており、古都辺、奈良(大仏を建てた)、屋敷台(将門の屋敷があった)などの地名が残っている。さらに近くの永吉には将門道、将門井戸、将門山、桔梗塚といった地名が残っているという。
 
市原市奈良 奈良大仏  将門が奈良の大仏を模して建立したと伝えられ以前は金銅仏であったが後に石仏に替えられたと伝わる。先の東北大地震でこの石仏も台から落ち首はどこかにしまわれたのだろうが無残な姿をさらけ出している。
上総国誌に「奈良村は上野郷と称す。平将門叛するや大和の奈良に擬して大仏の像を建つ、村名これによる」とある。
市原郡誌にはこの近くの古都辺について「平将門奈良村の地を大和に擬し、奈良と称す而して将門相馬に拠るも居館尚存し妃及妾等之に居らしむ故に都の名あり、廃後古き都の辺なるを村名となす。」とある。
  天慶8年(945)の勧進で将門が祈願の際に社領300石を寄進したと伝えられる。
 
印西市木下 小宰相の供養碑
  将門は牧野庄司の娘小宰相を寵愛し近くの竹袋城に住まわせていた。その供養碑が山根不動にある。江戸時代から当地の女人講によってその碑が受け継がれている。
 印西市竹袋 将門の井戸 竹袋城址の麓にあり城の飲料水を取ったと伝えられるが各地にある将門の井戸と比べ整備されすぎており昔の面影はない。
 
 香取市牧野 佐原稲荷大明神 佐原稲荷は牧野の小貫家の氏神であり将門が祀ったと伝わる。小貫家の裏山には蔵王権現の小祠もありこれも同じように将門が祀ったと言い伝えられている。承平2年(932)将門がこの地に来て牧野庄司家で年を越した時にこの家の娘小宰相を見初め妾としたという。小貫家はこの牧野家の後裔とされている。この為現在も小貫家は玉宿(おやど)と呼ばれている。
利根川図志では小宰相ではなく桔梗の前としており、西大須賀村東三井寺には桔梗の鏡、懐剣が残っていると書いている。東三井寺は明治以降廃寺となり現存せず。この鏡、懐剣は昌福寺に伝わっている。
 
桔梗の鏡と懐剣 
 
利根川図志   大利根博物館 平将門 史実と伝説の系譜より転写
 香取市牧野 観福寺   将門が当地の牧野家に居た時に夜な夜な光る阿弥陀仏を見つけ当寺に安置したと伝えられる。本尊は仏工春日の作で将門の守護仏であったと伝えられる。
 
 香取市多田 光明院  光明院は常陸介源満仲(913-997)が将門の供養の為に建立したと伝えられる。境内には満仲などの供養塔がある。
 
 柏市布施 布施弁天  布施弁天には将門が参籠し水垢離をとり天下統一を祈願したという伝説がある。弁財天が将門に矢を与えて加護する図だという絵馬がある。また将門が弁財天の前に再拝して新皇の位記を受けているところを描いたという絵馬も掲げられている。
また一説では祈願したにも拘わらず戦に負けたので将門が怒って焼いたとも伝えられている。
 
 佐倉市城 麻賀多神社  佐倉には麻賀多神社が多いがここはかって平将門を祀る神社と言われていた。
 
 佐倉市将門町 桔梗塚  佐倉市将門町の桔梗塚は香取市牧野の庄司の娘と伝えられる桔梗の前の墳墓と伝えられている。桔梗の前は秀郷と通じ将門の死を早めたと言われる。将門には6人の影武者が居るがそれを見破るには本物以外には影がないことや食事の時にこめかみが激しく動くとか全身が鉄のように硬く矢を受け付けないが眉間が弱点である等と教えた為に将門は討たれてしまう。秀郷はこの手柄を独り占めにする為に桔梗の前を殺してしまったと伝えられる。この為桔梗の怨念により桔梗が花をつけないと言う。この桔梗の花が咲かないという伝説は各地にあるがここがその発祥とも言われる。地元の人は桔梗塚とは言わず鬼塚と言っている。
 
 佐倉市将門町 八幡神社  将門明神の近くにある八幡神社は平良将が居館を築きその守護神として勧請したと伝えられる
 
 袖ヶ浦市岩井 松源寺  将門がこの地に不動堂を創り刀と珊瑚を寄進したと伝えられている。
 
 袖ヶ浦市下根岸 降伏寺  将門がこの地を通った時に馬が動かなくなった。近くに霊験あらたかな寺があると聞いて参拝した。その後将門は戦に勝ち続け敵を降伏させたのでこの寺を降伏寺と名付け崇拝したと伝えられる。
 
 千葉市亥鼻台 七天王塚  千葉氏の居城亥鼻城(現千葉大学)に七天王塚がある。伝承では将門の影武者七人の霊を祀ったとか、将門に助力した興世王・藤原玄茂・藤原玄明・多治経明・坂上遂高・平将頼・平将武とする説、将門の弟6人などとも言われている。七天王とは千葉氏の妙見信仰にかかわる北斗七星から来るもので後から将門と結びつけられたものであろう。
 
 柏市沼南町 福満寺  福満寺は谷和原村箇戸の庄屋の娘で将門の愛妾車の前(一説によると将門の息女)が住んでいたと伝わる。またこの寺には平将門の臣下坂巻氏の守り本尊と伝わる火伏観音がある。
 
 柏市沼南町 福満寺 鏡の井戸  福満寺の境内に車の前が鏡の代わりに用いたという「鏡の井戸」が竹林のなかに僅かの水をたたえて残っている。なお車の前の名は将門が桓武天皇の車内親王にあやかって付けたと言われる。
 
 柏市沼南町岩井 如春尼の地蔵尊  将門の次女春姫が如春尼と名を改めこの地に隠れ住み一族の菩提を弔ったと伝えられている。沼南町の将門大明神の境内に如春尼の護持した地蔵尊を祀る地蔵堂がある。また一説では如春尼に代わって如蔵尼が地蔵尊を祀ったとしている。神社の説明板はこちらを取っている。
 
 千葉市轟木町 大日寺  大日寺は将門の後世を弔ったと言う松戸市馬橋の万満寺を前身としており、千葉家累代の菩提寺である。ここには総体七社大明神社があり平良文、将門、忠頼、忠常、常時、乙女二人を祀っているという。
 
 東金市御門 妙善寺  東金市には将門がここで桔梗の前から生まれたという伝説がある。御門は元は帝と書いたが徳川氏が朝廷に遠慮して御門と改めたと伝わる。他にも殿廻(御殿を廻る地)、宮(将門の御殿跡)、近接する片貝に城之内と将門に関わる地名が残っている。将門が帝位を僭称した時にその生地に一刹を設け(天慶元年4月)帝立山妙善寺としたと伝わる。(上総国山武郡寺院明細帳)また別説には将門が慈母桔梗の前を弔う為に建てたとも伝えられている。(東金市史・総集編)何れにせよ桔梗の前が将門の生母とされているところが面白い。
この地域は望、良兼が上総介として支配していたところであり良兼が良将と誤伝された節があると東金市史第七巻にある。
 
5年前にこの地を訪れた時に親切に案内していただいた松井幸雄氏から頂いた40年前の御門にお住まいの布留川氏による当地に伝わる言い伝えを中心にこの地の将門伝説を見ると次のようになる。
将門は自分から帝であると称したので御門の寺は帝(天皇)が建てた寺と言うことから帝立山妙善寺という。現在両総用水となっている川は以前は十文字川とと称した。将門が生まれた時に川の上流より竹の十文字に束ねたものを流し、その止まったところでこれに白布を被せ水を濾して産湯の水とした。この為この川を十文字川と称した。また布で川をせき止めたので布留川とも言い、将門当地再訪の際母子の面倒を見た七郎兵衛に布留川と言う姓が与えられたと伝えられている。
 
東金市御門 将門稲荷  
  将門稲荷は将門の死後その遺臣7人が将門の遺髪を持ってこの地に遁れ来てその遺髪を祀って建てた神社で将門を祭神とする。将門稲荷には将門像が祀られていたという。明細帳には「神影は直垂袴を着し、右手に剣を握り、散髪にして、実に雲上の人を見るが如し」と記されている。(村上春樹)
 東金市御門 桔梗弁天(厳島神社)  
   平良将の夫人であった桔梗の前が妊娠した時に占い師に占わせたところ「子供は男の子で成長の暁には累を天下に及ぼさん」と言われたので良将はこれを心配し桔梗の前を小舟に乗せて海に流した。ところが舟は流れて東海岸に着き、土地の人が助けてこの地に住まわせた。無事に生まれたのが将門である。その土地に建てられたのが桔梗弁天と言われる厳島神社である。
また一説によれば桔梗の前が乳の出が悪かったので関内にある水神社に祈ったところ乳の出が良くなり将門が無事に育った。土地の人が桔梗の前を弁財天の再来と崇め祀ったのが桔梗弁天と伝えられている。桔梗の前は後に大蛇に化身し付近を廻りその足跡を残し村人の安泰を守り、時折近くの葦繁る沼地にその姿を現したという。
 東金市中野 三枚橋(産前橋)  桔梗の前が十文字川のこの地で急に産気づき将門を生んだと伝えられる。
 
 東金市御門 水神社  
   御門の水神社は将門が滅びた後七人の家士がこの地に遁れ七豪氏と称して土着し氏神として祀ったと伝えられる。将門稲荷を祀った七人と同じ落人か。また一説にはここに桔梗の前がお参りしたところ乳の出が良くなり将門も無事に育ったと伝えられる。布留川氏の記録には七人の遺臣の一人佐瀬蔵助の勧めによって建てられたという。
東金市関内 水神社  
   関内の水神社にも前掲の如く同じような言い伝えがある。
 東金市殿廻 祭塚(えな塚  将門の](えな)を埋めたと伝えられる。碑には祭神と刻まれている。
 
 布留川氏の資料によれば将門は秀郷との戦いに敗れ今はこれまでと単騎当地に遁れんとしたが途中流れ矢にあたり、産前橋あたりに潜伏し治療に専念するも傷痕深く天慶4年3月43才にして妙善寺にて亡くなったと言う。村人は大いに将門の悲運を傷み妙善寺の近くにささやかな祠を建てて将門神社として祭った。これが前掲将門稲荷の起こりであると。この言い伝えはその真偽はともかくとして将門を愛する人たちによって伝えられた話として心を打つ。
 野田市関宿町 白山神社  
   将門は白山神社を将門は崇敬し京よりの帰途桜の木を7本手植えしたと伝えられる。写真の手前が代々受け継がれてきた桜の木、後ろが本殿。
この他にも木間ヶ瀬の浅間神社、香取神社、松の木天満宮にも同じような言い伝えが残っている。
 野田市関宿町 駒形神社  
   将門がこの地を巡検中この地の白石源兵衛家で馬を休息せしめた時、たまたま同家で正月十四日の若餅をついており、馬に謝って餅の入った湯を与えた為馬が窒息死してしまった。しかし将門は農家の落ち度を責めずに逆に金子若干を与えて慰労した。そこで恩義に感じた主人が従前からあった保食神の祠の側に馬塚を築いて埋葬した。これが駒形神社の始まりと伝えられ、所在地の木間ヶ瀬の古間は駒から来ているという。