(8)その他将門遺跡 茨城県
 (A )茨城県 
稲敷郡江戸崎町 高田神社  承平年間(931〜937)に、紀伊国(現在の和歌 山県)の熊野大社の分霊を勧請し、平将門の乱の平定を祈願するために創建されたものと伝えられています。
 
 稲敷郡美浦村 西福寺   延歴年間坂上田村麿が東征に際し安置していた護身仏が寛平の頃の洪水で流され、承平2年将門が小貝川でこれを拾い上げ西福寺に祀ったと伝わる。
 
稲敷郡美浦村 大宮神社  この地の青野家は将門の後裔と称しており、この家に伝わるところによるとこの地に神明宮、平親王宮、熊野権現の三社があったが、これを併せ神明三元大宮とした。これが現在の大宮神社である。青野家に以下の如き話 が伝わっている。平将門に苅萱姫(さくらひめ)という妾がいた。国香の養女で国香の臣、大須賀内記の娘である。将門は最後の戦いに際し姫を逃した。姫は実家に帰り男子を出産。この子が後に大須賀家の家督を継ぎ大いに栄えたという。この子孫が青野家だという。
 
北相馬郡利根町蛟(みつち)神社  朱雀天皇の時代 将門が崇敬したと伝えられる。
 
下妻市 大宝八幡宮   大串の近くに大宝城址と大宝八幡宮がある。城址は中世に造られた城の跡であるが、当時は西、北、東を沼に囲まれており、ここら辺りに源護の本拠地があったと考えられる。大宝八幡宮には将門の愛刀が納められていたとも伝えられる。織田完之は将門古跡考の中で将門の新皇を宣したのは八幡神の乗り移った娼妓と言われるが、この八幡神を大宝八幡に比定している。
 
常総市石下町 下総国亭跡   良将、将門公の時代を通じて国庁が置かれ、将門が王城を建つ可しと議された地は南方の台地杉山であるとも言う。今にして往時を偲ばせるものに古明神、太子、丸の内、番場、天神、神田、神田台、表橋などの地名 が残り、平安の昔千余年前の興亡を雄弁に立証している。(石下町観光協会説明板)
 
常総市石下町 桑原神社  前掲香取大明神が良将により国庁近くに遷座された後も良将が始めに創起した神社は桑原神社として現存する。   
 
 常総市石下町 古間木城址 当時古間木城のあたりに官牧があり、後に狭隘になってきた為に大結牧に移されたが、将門もこの牧に関わっていたと伝えられている。
 
常総市石下町蔵持 平将門公赦免供養の碑  石下町蔵持に将門公赦免供養の碑があるこれは第五代執権時頼が民生安定の為にこの地の先霊を慰めんと豊田四郎の供養碑を建てたが、その際に将門公の祭祀尚常ならぬと聞き、自ら執奏勅免を得て下総守護千葉氏第十五代胤宗に命じ、将門の罪を赦しその霊を供養すべく碑の建立を命じ慶長5年(1253)に創られたもの。翌年その赦免碑に歓喜した縁者伴類達が豊田、小田両氏の助力を得て将軍菩提供養の碑を建てた。更に翌年にも大勧進供養を行いまた建碑があった。これらの碑は以前御子埋台地引手山にあったが、河川堤防改修に際し慶長5年の碑、7年の碑と将門の父良将の供養碑は現在の蔵持阿弥陀観音堂に移設された。慶長6年の碑はこの時に 妙見寺に移され、後に妙見寺が廃寺となり今は西福寺にある。
 
常総市石下町 西福寺供養碑 西福寺の良将供養碑は一説によれば良将の長男で早世した将弘を供養して建てたとも伝えられ、この碑が以前あった御子埋は将弘を埋葬した為にその名がついた。(名村栄治他 民衆の心に残る英雄・平将門)
 
 常総市石下町 豊田城址  豊田城は豊田氏12代善基が築いたが、その場所は将門の館跡という説がある。当時の場所は小貝川の改修によって河川となってしまい、その土手に豊田城址の碑が建っている。現在豊田城と称する地域交流センタ−があるが、町のシンボルとして建てたもので古の豊田城とは無関係。
 
つくばみらい市谷和原村 善福寺  善福寺には将門の墓と伝えられる無名塔があるが、寺の話では境内の古墳が関係しているらしいとのこと。織田完之はこの無名塔は将門の母のものではないかと言っている。当寺には鎧姿の将門を描いた軸があり山門には将門の定紋がある。当寺は将門開基とも伝えられ、当寺の十一面観音の木像は将門が厚く信仰したと伝えられている。
当寺の縁起に「故に妙見菩薩将門の家を守護せず。故に将門の武勇尽きる。数陣勝ちを得ず。されば即ち本地大悲十一面菩薩に深く誓願し、将門公士卒共に甲の上に宝前の絵馬を指し出陣したところ敵退散し勝利 を得た」とある。
  
 
つくば未来市谷和原村 善福寺 無名塔
 
 つくば市茎崎町 鹿島神社 天慶8年(945)の勧進で将門が祈願の際に社領300石を寄進したと伝えられる。
 
 つくば市茎崎町 月読神社 天慶8年(945)の勧進で御神体は将門の守護神という。
 
つくば市茎崎町 念向寺  天慶2年(939)将門が帰依し300石を寄進したという。
 
 土浦市 土浦城址  常陸国試に「土浦城は新治郡にあり、平将門初めて築く」とあり、将門が常陸国府を攻めた時に一時兵站基地を設けたと見られる。(日本教育文化協会監修 平将門古跡写真資料集)
 
 筑西市関城町黒子 東叡山千妙寺  野本合戦で将門に焼かれた承和寺はその後観応2年(1351)に現在の黒子に東叡山千妙寺として再建された。一説によれば承和寺は将門の乱に際し朝命により将門調伏祈祷を行い将門は滅んだが、将門の残党により寺を焼かれたとも伝えられている。
 
 筑西市明野町東石田 石田館・国香居館跡  筑波山を東に望む東石田集落の北東端あたりに国香の居館があったと伝えられている。またここには国香の死後平良兼が葬ったと伝えられる国香の墓が明治初年に廃 寺になった光蓮寺にあったと伝えられ「常 陸大掾国香墓、承平五年五月四日為菩提良兼所建也 常陸石田荘石田郷」と判読されたと言う。
 
 取手市藤代町岡 大日山古墳  台地の上に古墳時代後期の円墳があり、その上に岡神社が建っている。ここは将門の出城跡とも、愛妾桔梗の住まい「朝日御殿」跡とも伝えられている。また岡~社の北東にある仏島は「岡不知」とも言われ将門の墳として永らく伝えられてきた。神社の真下にある桔梗田は将門没後前途をはかなんだ桔梗の前が当時は沼だったここで身を投じて命を絶ったことからその名がつけられたと言われ、現在に至るも岡部落一同が共同で耕している。(岡神社説明板)
 
 取手市米野井 桔梗塚  取手市教育委員会の説明板には以下の如く記されている。
相馬日記に「米野井の桔梗ヶ原というは将門が妾桔梗の御前というが殺されけるところにその墳あり。今も桔梗はありながら花咲くことなきは、この御前がうらみによれるなりといへり」竜善事に伝わる話では桔梗姫は大須賀庄司武彦の娘で将門の間に三人の子をもうけ、薙刀の名人であったが、将門の戦勝を三仏堂に祈願しての帰路、この地で敵将秀郷に討たれたりという。また一説には将門には常に七人の影武者がそばにいた。桔梗は騙されて、本物は「こめかみ」が動くことを敵に教えたので、将門はこめかみを射られて討ち死にした。その後秀郷は桔梗をも口塞ぎの為殺したという。
また一説には将門の討ち死に後に桔梗はここまで逃れてきて追っ手の手に掛かり亡くなったと伝えられ、土地の人が哀れんで桔梗の遺体を埋葬した地とも言われる。
 
 取手市戸頭 永蔵寺薬師堂  永蔵寺薬師堂には将門の守り本尊と伝えられる薬師如来像がある。京都清水寺学頭昌慈念僧正が天慶4年山門座主となり応和4年正月15日に開基し薬師如来像を安置したと説明板に書かれている。
 
 取手市下高井 高源寺  高源寺は承平元年(931)将門が釈迦如来の霊験によって建立したと伝えられている。
 
 取手市市之代 姫宮  姫宮神社はお姫様と呼ばれ、そのお姫様は将門の妾又は三女と伝えられ、餅草で眼を突いた為に片眼だったと言われ片目の姫宮とも伝えられている。
 
 取手市取手 長禅寺  寺伝によると将門が承平元年(931)に創建したと伝えられ、将門の守り本尊と伝えられる十一面観音を境内の三世堂に安置している。古くは大鹿原にあったが元禄の頃その住民と共に現地に移転した。この寺の落慶の際に桔梗の前が見物に来ていて将門に見初められたと伝えられる。
 
 坂東市岩井 延命寺山門  延命寺は将門の石井営所の鬼門除けとして建立された。天慶3年秀郷・貞盛によっ て石井営所が焼かれた時、将門の持仏薬師如来像は移し隠され、世の静まるのを待って現在地の本堂前の薬師堂に祀られている。昔この地が菅生沼の入り江に囲まれて島状になっていたことから延命寺は島薬師と呼ばれており、国王神社の別当寺でもありもとは国王神社の側にあった。当寺、延命院、藤代町の延命寺は将門の三延命と呼ばれている。
 
 坂東市岩井 九重の桜  将門が京の御所紫宸殿から持ち帰った七本の桜株のうち、一本を営所近くに自ら植えたと伝えられる。居館とは別にこの辺りに将門の政庁がありその政庁前の桜並木の名残とも言われている。
 
 桜川市羽田 阿弥陀堂  大和村常安寺跡(常安寺は明治初年に廃寺となり雨引の楽法寺に合併)に立つ阿弥陀堂に古来から伝わる阿弥陀仏があり、 その後背に「天慶元戊戌 真壁羽田村  奉寄進阿弥陀一仏 栗木一本 西顕山 願主平新皇将門后持仏なり 別当常安寺阿弥陀院」と刻してあるという。このお堂は地元で聞いたところ「阿弥陀さんのことですか。汚いぼろっちいお堂ですが、何であんなものわざわざ見に来たのですか」と言われ中の阿弥陀仏の謂われは全く忘れられていた。将門の遺跡を尋ね歩いているとよくあることですが。
何れにせよ君の御前はこの地大和村と深い関係にあり、先の后神社の案内にある ようにこの辺りで生まれ育ったのであろう。
 
 水海道市 日枝神社  日枝神社の縁起には将門がこの社を尊崇し妙見菩薩の像を刻納したと記されており、古くは妙見神社と呼ばれていた。ここの氏子は妙見が亀に乗る為亀を捕らないし成田山にも参詣しなかったという。
 
 結城市 山川不動尊  山川不動尊(明王山大恵寺)の本尊は弘法大師の作で将門が守り本尊として京都の東寺から持ち帰ったものと伝えられている。将門が討たれた時山川沼に身を投じた家臣と共に失われたが、その後慶長年間に漁師の網に掛かり上山川の不動宿に安置されていた。慶長6年山川城主の計らいによって現在地に移されたと伝えられる。又一説によればこの地方で布 教活動をしていた大恵上人が霊夢で漁師の網に掛かった像が将門の持仏であることを知り沼の辺にお堂を建てたのが山川不動尊の起源と言われる。鎌倉時代この一帯は結城朝光の綾戸城があったがそれ以前に将門の支城があり「納涼殿」と称していた。属将坂田時由岐時幸がここによって源経基軍と合戦、不動尊の霊威によって両軍とも自滅したと伝えられる。