(7)神となった将門
国王神社  坂東市の国王神社は将門の次女如蔵尼が父の戦没した場所に庵を結んでその冥福を祈ったと言われ、この庵が国王神社の起こりと伝えられる。御神体の将門座像(将門の顔付き参照)は如蔵尼が将門の三十三回忌に父の姿を刻んだものと言われる。
 
 神田明神   将門の遺領豊田の地は貞盛の所領となり、将門の恩顧を受けた人々の一部が江戸に安住の地を求めた。当時の東京湾は大きく広がっており、彼らは隅田川河口近くに移住し干拓に励みつつ、明神社を創り将門を祀った。この場所が一説では首塚の所である。後に江戸城の大手門の正面に位置するようになった為、幕府はこれを安房神社と合祀し神田に移し神田明神とした。全く同じように田安門の近くにあった将門を祀る田安大明神も九段下に移され筑土神社となった。神田明神由緒によれば延慶2年(1309)に将門を御祭神とし祀ったとある。神田の地名も岩井の神田山(下総国相馬御厨の一部で伊勢神宮への寄進田の意味で神田の地名がついたと言われ、武蔵国豊島郡柴崎村に落ち延びた将門の残党が駿河台付近の小高い丘を神田山と呼んで郷里の神田山を偲んだものが地名となった。)岩井の神田山に伝えられる神田囃子は将門出陣の際の軍楽だったと言われ、神田明神の神田囃子もこの流れをくむ。(名村栄治他 民衆の心に生きる英雄平将門)
神田明神は家康により江戸総鎮守とされ、江戸第一の社格を与え、将門を尊崇した。そこで寛永3年(1626)後水尾帝は勅使を派し将門反逆の罪を許した。明治7年明治天皇が神田明神に親拝するに際し、明治なって再び逆賊の扱いを受けていた将門の霊を本殿の側面に移し、その空いたところに大己貴命、少彦名命の分霊を入れた。これが氏子達の間で問題となり、神社側は急遽将門の為に別宮を建て将門神社の扁額を掲げた。昭和60年5月に元に戻された。(加門七海 将門は神になれたか)
 
神田明神将門の御札他 
 
我孫子市日秀の将門神社  手賀沼に沿って将門関係の遺跡が点在するが、日秀(ヒビリ)には将門神社がある。将門没後かって将門が手賀沼を馬で乗り切り岸辺の丘陵に上がり朝日を拝した場所に一宇を奉祠しその神霊を迎えたのが始まりと伝えられている。我孫子市史によれば江戸時代には平親王七騎大明神と称していた。この辺りの水辺で行われた御霊のの祭祠と関わりがあるという。御霊はしばしば七体で祀られることが多く、御霊を統制する神霊が天王と呼ばれたことから、この相馬地方の代表的御霊である平神王と七騎武者が結びついたとしている。
 
佐倉市の将門大明神   佐倉市の東部の元内郷村字将門の台地を将門山と言い将門が城を築いたと言い伝えられている。この辺り一帯は将門の父良将の本拠地であり陸奥鎮守府将軍として陸奥国に出る前にここに居を構えていた。これが後に将門と入れ替わって伝えられたとも言われる。
将門大明神は口之宮神社とも言われる。口之宮神社は佐倉宗吾の霊を祀ると言われ、宗吾を処刑した佐倉城主堀田正信が宗吾の祟りを恐れ将門大明神と合祀し、鳥居を寄進し将門の霊により宗吾の霊を鎮めようとしたと伝えられる。
 
 又他にも天禄3年(972)秀郷の家来安部左衛門佐が秀郷の三男、四男が病死したのは将門の霊が祟った為であるとして将門ら七騎の武者をここに合祀し将門権現と称したとの記録が下野の佐野には伝えられている。(織田完之 平将門の古跡)
柏市沼南町の将門大明神   沼南町にも将門の本拠地と伝えられる所がある。ここでは下総国相馬郡岩井村はこの地であるとしており、岩井村も実在する。守谷町高野村には将門が高野山を模して創建したと伝わる海禅寺(後掲)があるが、この沼南村にも高野という地名が残っている。このようなことからこの地には将門の偽宮があったという説もある。この地に立つ将門大明神は将門を祭神とし将門神社とも言われる立派なお宮がある。社殿は小規模だが立派な彫刻が施されている。しかし残念なことに敷地が削られ参道もないような状態。
 
 説明板には「(将門は)父良将と共に相馬郡岩井村に住居し下総国の開発と共に住民の生活安定に心血を注ぎ信望を集めたり。……将門公は相馬の御厨の下司職を父と共に世襲す。風早村大井将門山に出城を築き、布施高野に高野御殿を築き、土塁は今も保存されている。……第三女如蔵尼はこの地に祠を建ててその霊を弔う(後掲如春尼の地蔵尊参照)。……現在の建物は江戸末期安政6年(1859)の建立。……千葉氏五代常胤祖先将門公を偲び社殿を復興したとの伝説もある。基壇の部分に離れ駒や隻眼の人物像がある。放れ駒は九曜星と共に将門公が用いた紋とされる茨城県岩井市(坂東市)ににも共通する伝説がある。」とありこちらが本物と言ったような主張がされている。
石下香取大明神  石下町向石下にある香取大明神も将門を祀る。社伝によると昌泰年間(898〜901)将門の父良将が下総開拓の府として下総国庁を置いて政務を執るにあたり、東国創業の祖神香取明神を勧請し創建。その後良将が向石下に本拠地を構えるに際し館正面北方のこの地に豊田本郷の総鎮守社として遷座。この神社前方の一帯は豊田武夫の集合場所とされ、将門に率いられる郎党、郷党の寄場で、戦勝祈願の後出陣した。将門没後冤罪忌避に触れ祭祀が途絶えたが、豊田四郎政幹が前九年の役の功により豊田郡を賜った後再興。将門、豊田四郎政幹を祀る。   
 
 御所神社(仁江戸) 堀越渡し合戦で戦場となった結城郡八千代町仁江戸にも将門を祀る御所神社がある。
 
兜神社(東京都中央区)  地名となった兜神社は将門を祀る鎧稲荷と源義家を祀る兜塚を合祀したものと言われている。
また織田完之や村上春樹によれば秀郷が将門の兜を埋めて塚を造り小社を建てたという。