(6)将門の最期
 朝廷は将門追討の命を発するが、推問東国使に任じられた者たちは一向に出発しない。再度任命し直したりしている間に時間が経っていく。朝廷は天慶3年1月11日東海、東山両道の諸国に官符を出して将門を殺害した者には不次の賞(順序によらない別格の賞)を与えることを布告。官位に強い執着を持っていた東国の豪族はこれを受けて動き出し、秀郷とそのもとに寄寓していた貞盛が連合して天慶3年2月1日立ち上がる。一方将門は農民を中心とした土豪群からなる部下を、農繁期に入ったこともあり一旦在地に帰していた。秀郷・貞盛はこの虚をついた。将門はこの動きを知り機先をを制すべく下野に向かった。前後二陣に編成され前陣は将門、後陣は藤原玄茂が指揮をとる。後陣の玄茂が敵の所在を突き止め将門の指図を受けずに戦闘に突入。老練な秀郷はこれを打ち破る。秀郷は笠間方面に逃れた将門兵に備えて上舘、中館、下館を設けたと伝えられ、下館の地名はこれによる。
水口村風景   将門記を借りれば(秀郷・貞盛は)同日未申の剋ばかりに川口村(水口村・八千代町水口)に襲い到る。新皇声を揚げて已に行き、剣を振るいて自ら戦う。……貞盛は天を仰ぎて云く、「私(将門方)の賊は、即ち雲の上の雷の如く、公(秀郷・貞盛方)の従は、厠の底の虫の如し。しかれども私の方には法なく、公の方には天あり。三千の兵類は、慎みて面を帰すことなかれ」とあり、将門軍の優勢なるを公の方に天ありと部下を励まし、将門軍を追い詰める。将門は一旦下総の境に撤退する。
 
逆井城址  境については下野と上野との境説、猿島郡境町説、猿島町逆井説等ある。ここでは広江や北山との地理的関係から逆井説をとる。逆井には戦国時代の城跡が復元されているが、将門とは関係ない。この辺りは丘陵地帯にあり、南東を低湿地が囲み、戦に適したところに見える。
「新皇は、疲れたる敵等を招かんとして、兵使を引率して辛島の広江(広河の江・飯沼−堀越渡しの合戦参照)に隠る。……恒例の兵衆八千余人未だ来たり集まらざるの間に、啻に率いるところは四百余人なり。しばらく辛島郡の北山を帯し、陣を張りて相待つ。」北山については岩井の北原、国王神社付近、辺田の北山など比定地は多いが、この辺りでは屋敷林のような森をさして山と言うので比定は難しい。ここでは国王神社に近い延命寺の遠景を掲げる。
「十四日未申の剋を以て、彼此合い戦う。時に新皇は順風を得て、貞盛、秀郷らは、不幸にして吹き下に立てり。……(風強く)彼此楯を離れて各々合い戦う時に、貞盛が中の陣は撃ちて変えて、新皇の従兵は馬を羅ねて討ちつ。且つがつ討ち取れるの兵類は八十余人、みな追い靡かすところなり。……時に新皇、本陣に帰るの間、吹き下に立ちぬ。貞盛、秀郷ら、身命を棄てて、力の限りに合い戦う。ここに新皇、甲冑を着て駿馬を早めて、躬自らら相い戦う。時に現に天罰ありて、馬は風飛の歩みを忘れ、人は梨老が術を失えり。新皇は、暗に神鏑に中たりて、終に託鹿の野に戦いて、独り蚩尤の地に滅びぬ。」(将門記)こうして一代の風雲児は命を落とす。
  
 
延命寺遠景 
 
晒された将門の首 
  将門の首は都に運ばれ梟首せられたが、なおも体と繋ぎて再び戦せんと叫んでいたと言う伝説が残っている。犯罪人の首を晒すという方法は将門が最初であり、こうしたことから将門の首伝説が始まった。(川尻秋生・平将門の乱)
将門の遺骸は忠臣達により密かに岩井市(現坂東市)の現延命院のあるところに一隅に葬られ、将門山と呼ばれた。この地は相馬御厨の神領なので将門山は暴かれることなく今におよんでいる。(延命院の説明板)また一説によれば将門の残党狩りが厳しいのでもう一度掘り出し、その遺体を奉じて武蔵国豊島郡に入った。別手の旧臣達は将門の首が都に送られるのを途中で奪い返さんと八幡の不知森(市川市八幡の藪知らず)で要撃するも失敗し、次いで豊島郡平川村でも失敗し、後に遺体を奉じて来た旧臣達と相談し武蔵柴崎村に葬った。現在の千代田区大手町の首塚である。
後に貰い受けてきた首も此処に葬った。(首と胴を一つにしないと生霊の祟りが発生するという中世の信仰から首を貰い受けることが出来た)平川の辺は安房の国から移住した漁民が安房神社の分霊を奉じて生活していた。この漁民達が将門の遺臣をを温かく迎えた。もともと延長元年(923)に将門が太刀と神馬を奉納し承平3年(932)に社殿を再建寄進したという記録もあり将門と安房神社の結びつきは強かった。
東京大手町首塚   将門の首塚には遊行二世真教上人が徳治2年(1307)に「蓮阿弥陀仏」の法号を送り供養碑を建てている。現在のものは昭和50年3月26日(将門の命日に当たる旧暦2月14日)戦災で破損していたものを再建したもの。
 
延命院胴塚   延命院の胴塚には東京の首塚にあり破損していた供養碑を修理したものが東京都の将門塚保存会寄贈により移設されている。
 
筑土神社(千代田区九段北)  一説では京から下げて貰った首級を武蔵国豊島郡平川(現在の江戸城本丸近辺)の観音堂に祀り津久戸明神と称した。津久戸=筑土とは平地に土を高く築いたことを意味し将門の塚を称して筑土明神と呼んでいたのであろう。(織田完之・平将門の古跡)降って文明10年(1478)太田道灌江戸城を修築するに、特に当神社を尊崇し、同年6月に社殿を造営し、江戸城の鎮守又は太田家の守護神として祭祀を篤くせられた。越えて徳川家康の江戸城に移り城郭改修に伴い天和7年(1579)二の丸普請の工事に際し当社はその郭内に入る為田安卿に替え地を賜り遷座する。この地は現在の九段北一丁目モチノキ坂付近より牛込門内に至る極めて広い境内を有していた。当時はその地名を称し田安明神も江戸明神とも称し世人崇敬の的となっていた。然るに元和2年(1616)後水尾天皇が外堀普請を起工するにあたり更に新宿区筑土八幡町に遷座するのやむなきに至る。この津久戸明神を改めて筑土明神と改称した。……明治7年氏子の請願で国家祭祀の性質のある御祭神、天孫天津彦火瓊々杵尊を勧請しその相殿として平将門の霊を祀ることとなった。それと共に筑土明神を筑土神社と改称した昭和20年4月14日大東亜戦争の災に遭い社殿の他悉く焼失す。昭和21年千代田区富士見町1丁目に仮遷座、29年現在の地九段北1丁目中坂に遷座。(筑土神社由緒書)当社の社務所によると将門の木像や首桶と伝えられるものがあったが全て戦災により焼失したとのこと。
付近の平川天満宮にも同じような言い伝えがある。太田道灌が文明10年(1478)筑土神社の前身である田安台荒神社と共に創祀したもので荒神社の祭神は平将門の怨霊だと言う。(東京都の歴史散歩・上)
   
 
 平川天満宮
 
筑土八幡宮   似たような言い伝えが筑土八幡宮にも伝わっている。二代将軍秀忠の江戸城北の丸増築の際氏子と共に現在地に移転させられたもので、八幡神(応神天皇)と筑土明神(地主神で平将門という)の二神を合祀する。(東京都歴史散歩・中)
 
 日輪寺(東京都台東区)  柴崎村の将門の亡骸を埋葬した塚は年月の経過と共に荒れ果て、将門の亡霊の祟りがひどくなり、周囲で病気・災害・若死などが頻発、旅の途中に足を止めた時宗の真教上人に住民が将門の亡霊を宥めてくれるように頼んだ。(織田完之・平将門古跡考)真教上人は嘉元3年(1305)柴崎村にあった将門塚を修復し日輪寺を創設し将門を供養した。明暦3年(1657)の江戸大火災後日輪寺は現在の場所に移った。(台東区教育委員委)
当寺に現存する「南無阿弥陀仏」の石碑は首塚にあった石碑の二年後に真教上人によって造られたもので、首塚の石碑が再建されるまで一時首塚に置かれていたもの。
 
明治後半の首塚の図   整備される前の首塚について織田完之の記述がある。
大蔵省の前に古い蓮池がある。昔からこれを神田明神の御手洗池だと言い伝えている。池の南側で、少し西に当たるところに、将門の古い塚がある。その高さは大体20尺(約6m)でその周囲は15間(約27m)ばかりだ。……塚の前の東側2間程の所に、一つの礎石がある。幅が7尺長さが9尺ばかりのもので、今はその上に、古い石灯籠が置かれている。……さてこの礎石だが、ここは例の真教上人が、将門の霊に対して「蓮阿弥陀仏」の贈り名をし、それを刻んだ板碑をこの上に立てたものであることは疑うべくもない。なぜならそれは一橋家の家来で中根正峡が書き残した「神田明神の記」と題する文書が伝えていることと完全に一致する。同記は「寛政4年正月25日神田神社の社司柴崎美作にお上から命令があって、椎の木の下に将門の印があったので、それを神として祝い祀り、小さな祠が建てられた。」と書いている。……酒井雅楽頭のころは、「将門稲荷」と称し、その祠もきれいで立派で……毎年祭礼の時には、神田明神の社司が来て、祝詞を読むのが例になっていたことを伝えている。(平将門の古跡)
 
 六所塚古墳  石下町御子埋古墳群の中に前方後円墳六所塚古墳があり、ここに将門の父良将が葬られていると伝えられ、東側の通称六所谷には将門の遺体を埋葬したとも伝えられ、かって数多くの石塔婆が出土したという。御子埋という地名と共に興味深い。始めは五所塚(御所)と呼ばれていたが、将門が逆賊の汚名を受けた為にこれを隠し六所塚と呼んだとも伝えられる。