(5)新皇となる
   常陸の国府を侵攻した後、興世王の「一国を討つと雖も公の責め軽からじ。同じくは板東を虜掠し暫く気色を聞かん。」との問いに「苟も将門、刹帝の苗裔、三世の末葉なり。同じくは八国より始めて、兼ねて王城を虜掠せんと欲う。今すべからく先ず諸国の印謚を奪い、一向に受領の限りを官堵に追い上げてん。しからば即ち、且つは掌に八国を入れ、且つは万民を附けん。」と答え、下野国府に向かう。下野国長官は常陸のことを聞いていたので、抵抗は無理と三拝して印謚を差し出す。将門は長官を追放し、周辺を占拠する。追放された長官らは「簾の内の児は、車の轍を棄てて、しかも霜の旅に歩み、門の外の従類は、馬の鞍を離れて、しかも雪の坂に向かう。」(将門記)といった有様。この余勢を駆って上野国府に向かい、同じような状態で印謚を受ける。このようにして将門は板東諸国を掌握する。
将門が常陸国府を占領した後将門の死が報告されるまで、将門に関する書状が板東諸国から発信されず、駿河、甲斐、信濃等板東に接する隣国からのみ発せられていることから、将門が板東諸国を掌握していたのは事実であろう。(川尻秋生・平将門の乱)
下野国分尼寺跡   下野国府は栃木県下野市にあった。現在は公園として整備されており、国分僧寺は前に載せたので国分尼寺を載せた。
上野国侵攻後除目の会議の席で一人の昌伎が神懸かりにあい八幡大菩薩の使いとくちばしって「朕が位を蔭子平将門に授け奉る。その位記は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂表すらく、……朕が位を授け奉らん。」(将門記)と述べる。将門大いに喜び、自ら新皇と称するに至る。この昌伎の神懸かりは興世王らの演出といわれ万世一系の天照大神に代わる皇祖神として八幡大菩薩から皇位を譲られたとし新皇の正当性を主張したもの。(川尻秋生・平将門の乱)その後部下や一族を板東八ヶ国の受領に任命する。下野守に舎弟将頼、上野守に常羽御厨の別当多治経明、常陸介に藤原玄茂、上総介に興世王、安房守に文屋好立、相模守に平将文、伊豆守に平将武、下総守に平将為を除す。この任命に当たり親王任国であった常陸、上総に限って守を補任せず介にとどめているのは、将門に突き詰めた朝廷に対する叛意は無かったことを意味する。(上横手雅敬・平将門の乱・現代思潮社刊論集平将門研究)また将門は旧主藤原忠平に書面をもって報告する。
  
 
将門はこれまでの争いの経緯を述べ「本意にあらずといえども一国を討ち滅ぼせり。罪科軽からず。これによりて朝議を伺うの間に、板東の諸国を虜掠すること了んぬ。……将門すでに柏原帝王の五代の孫なり。たとい永く半国を領せんに、あに運にあらずと謂わんや。……将門傾国の謀を萌せりといえども、何ぞ旧主の貴閣を忘れん。」と朝廷を倒すことは考えていないと言っている。
しかし都は大騒ぎとなり、折からの瀬戸内伊予に起こった純友の乱に合わせ諸社に将門の調伏を祈祷せしめたりする。
将門は王城を下総の亭南に建てんとしたと将門記にあるが実際に王城が出来上がったか否かには両論あるも時間的余裕から見て計画はともかく実際には実現しなかったのではないか。
 
多治経明居館跡  将門によって上野守に任じられた土豪常羽御厨の別当多治常明の居館跡が結城郡八千代町平塚にある。一部土塁が残っているが、その面影を偲ぶ縁もない位の林となっており、道に沿って立てられた柵と案内板があるのみ。
将門はこの後貞盛らが潜んでいると見られる常陸北部に天慶3年3月中旬に残敵を求めて出陣するも、貞盛の行方は分からず、吉田郡蒜間の江(東茨城郡涸沼)にて多治常明らが貞盛と源扶の妻を捕らえたのみであった。貞盛は涸沼川の辺りにある平戸に館を持っていた。貞盛の居館平戸館は平戸の吉田神社一帯にあったとされ、吉田神社の前に居館跡の石碑が立っている。近所の古老に聞くと伝えられている平戸館跡はここから少し南東に寄った小さな祠のあるところだが、役人がここに立てていったとのこと。言われた場所は道の側で石の祠があり小さな林になっている。貞盛から6代後の子孫が平清盛であることを考えれば、もう少しきちっと整備されていても良いように思ったが。
 
 
平戸館跡 
 
貞盛の妻達を捕らえたとの報告に将門は「女人の恥を匿さんがために、勅命を下すといえども、勅命より以前に、夫兵のために悉く虜領せられたり。なかんずく貞盛が妻は、剥ぎ取られて形を露わにして、更に為方なし。……(将門は)女人の流浪本属に返すは、法式の例なり(と述べ)……一襲を賜いて……
ヨソニテモ風ノ便リニ吾ゾ問フ 枝離レタル花の宿ヲ
妾、幸いに恩余の頼りに遇いて、これに和して曰く、
ヨソニテモ花ノ匂ノ散リ来レバ 我身ワビシトオモホエヌカナ」
 

(歌の大意は福田豊彦・平将門の乱によれば「他所にいても、良い香りを運んでくる風の便りで、枝を離れた花のありかがわかるよに、私は夫を離れたあなたの身の上を案じています。とやさしく言いかけながら裏にはあなたの元には、遠く離れた夫貞盛便りがあるのでしょう。お話しなさい」という意味を込めている。返歌は「離れたところにいても、花の香りのようにあなたの温情が伝わりますので、我が身をわびしいとは思いませんよ」このように感謝しながら「遠く離れた夫のほのかな便りが聞こえてきますので、私は一向にわびしいとは思いませんよ」と夫貞盛の在所を問う将門の要請を軽くいなした。)
将門の都時代に得た教養の一端を示しているとされる場面である。
成田山新勝寺   成田山新勝寺の起源もここにある。朝廷は将門調伏を京都遍照寺の寛朝に命じ、寛朝は弘法大師作の不動明王を持って関東に下り護摩を修めた。満願の日に将門の乱が平定されたという。朱雀天皇は「新戦剋勝」にちなんで新勝寺という寺名を与えたと伝えられる。