(4)相次ぐ骨肉の争い
 
  (A)染谷川の戦い
将門は父の死後官の位を得て地元における地位を上げようと、父から受け継いだ所領を叔父・伯父達に預け15才で都に上がる。つてを頼って右大臣(後に左大臣)藤原忠平のもとに身を寄せる。しかし征途空しく都での地位は上がらず、相馬御厨の下司職を得て27才で帰郷する。この間に叔父達に預けた所領は勝手に叔父達の占有するところとっており、帰郷されると邪魔な存在になってしまっていた。叔父国香は将門を帰途上野国染谷川に襲ったが、良文が将門を義によって助太刀しこれを破ったと千葉神社の染谷川の碑に書かれている。この戦は後に千葉氏によって作り出されたものとされている。

千葉神社   千葉神社は妙見様と通称され、平良文の子千葉忠頼5代後の常重が大治元年(1126)に千葉の^鼻城入城と同時に妙見菩薩を此処に祀り北斗山尊光院金剛授寺(妙見寺)として創建。以後千葉氏の守り神として尊崇されてきたが明治維新の神仏分離によって千葉神社となった。そこに染谷川の碑が残っている。
神社の南に隣接するところで「康安3年(1344)下総国相馬郡安楽寺」の銘がある鐘が発掘された。安楽寺は現在竜ヶ崎市にあり良文の甥であり、国香の子貞盛建立と伝えられることは興味を惹く
 
染谷川の碑   染谷川の碑は千葉神社の入り口近くにあるが染谷川の碑と言う文字が判読出来る程度で風化が著しい。
碑文には「………族なる国香朝臣は、上毛の、染谷川原に、楯並めて、家の印の、月星の旗を靡かし、つづみ笛、天に響かし、射違うる、弓の弦音、山川に、とよみ渡りて、七日夜に、三十六たびも、入り乱り、戦いけるを、良文が、兵弱り、人みなの、死ぬべく見えしを、尊しや、北斗の星の星の神、味方助けて、末ついに、国香に勝ちぬ……」とある。(赤城宗徳 平将門)
千葉氏は妙見神に篤く帰依しており、後に起こる子飼渡の合戦をモデルに妙見神を讃えるために作り出された戦であり、実在しないと言われる。
 
千葉妙見大縁起絵巻  千葉妙見大縁起絵巻には染谷川出陣し戦に望む良文と将門の絵が描かれており、他にも弓を射る将門の絵もある。そこには「強弓ノ大矢束、三四町中之物不中ラト言フ事ナシ。爰ニ思心有テ天命ヲ祈リ奉ル、百手ノ的ヲ始而射ケル也」と弓の名手であることが記されている。(愛媛県歴史文化博物館 住友と将門)
 

(B)女論による争い
将門が帰郷してすぐに良兼との間に女を巡って諍いが起こる。「良兼去る延長9年(931)をもて、いささか女論によりて、舅甥の中すでに相違う。」(将門略記・岩井市史編さん委員会 平将門資料集)とあることから女性問題で両者が争ったとされる。この女性問題については良兼の娘が将門の妻となっていたが、招婿婚の時代に将門と同居していたのでみっともないと良兼が将門に文句をつけたとする説(成田名所図会 吉川英治もこの説に従っている)、良兼の娘を将門が奪ったとする説(海音寺潮五郎)等あるが、将門を主人公にする小説では作者それぞれがフィクションとして取り上げているが事実は闇の中である。何れにせよ戦いと言うよりも言い争いに近いものであったろう。


こで将門の妻妾について見てみよう。
(a)君の御前  
后神社   真壁郡大和村(現桜川市)木崎にある后神社は将門の妻君の御前を祀っている。
同神社の案内板によれば「承平の頃豪族平真樹と言う者大国玉字木崎に居を構え、従五位上延喜式内社大国玉神社並びに平将門の叔父良文の遺領大国玉地方を領す。妙齢の娘あり、君の御前と言う。豊田郡国生に住む平将門に嫁す。ときに大串(下妻市)に前常陸の大掾源護あり威勢をふるう。その子に扶、隆、繁あり。君の御前に懸想し、これを得んと承平5年2月石田(明野町)に住む平国香に援を頼み将門を襲う。国香は領地を望むなり。戦は将門、真樹の勝利となり繁は戦死、国香は自殺す。これより将門は叔父たちと争う。承平7年7月服織(真壁町)に住む叔父平良兼将門を攻む。同月18日猿島郡陸閑(八千代町)に於いて君の御前とその子斬殺される。死後祭祀の礼をうく。后神社と称す。后の名は将門が新皇即ち帝を称せしにより正妻の意なり。地名また木崎なり。御神体は平安時代五衣垂髪の女人の木造である。……近くに御門お墓あり。」とある。
后神はの小さな祠を木造の建物で覆ってありその祠の中に木像があるらしい。左の写真は赤城宗徳「平将門」より転写。


 君の御前以外に桔梗他の妾がいるが後で関係する遺跡のところで述べることとする。
 
君の御前 
 

(C)野本合戦
 将門が鎌輪を中心に田地の開拓を進め着々と勢力を蓄えていくのを良しとしない源扶らが、将門の虚を突いて亡き者にしようと起こした戦が野本合戦である。将門が所用で館を出るのを待ち伏せ将門を襲う。将門が扶らの軍勢を見るととても勝ち目が無さそうなので戦いたくなかったが、こうなったら戦う以外に道はないと自分に言い聞かせ応戦したところ、風が順風となり矢は風を利して扶軍を圧倒し勝利を得る。将門記には「野本、石田、大串、取木などの宅より始めて、与力の人々の小さき宅に至るまで、皆ことごとく焼き巡る。火を逃れる者は、矢に驚きて火の中に還り入る。……千年の蓄え、一時の炎に伴えり。また筑波・真壁・新治三箇郡の伴類舎宅五百余家、員の如くに焼き払う。……その日の火の声は、雷を論じて響きを施し、その時の煙の色は、雲を争いて空を覆う。山王は煙に交わりて巌の後ろに隠れ、人の宅は灰の如くにして風の前に散りぬ。国吏万姓は、これを見て哀働し、遠近の親疎は、これを聞きて嘆息す。箭にあたりて死せる者は、意わざるに父子の中を別ち、楯を棄てて遁るるの者は、図らざるに夫婦の間を離たれぬ。」とその戦の激しさを述べている。国香は扶らを救援せんと野本に出陣したが共に敗れ、本拠地石田に逃れるもそこで没す。
鳥羽の淡海は小貝川の一部が沼となっていたもので現在は開拓されて田になっており現存せず。赤い→は将門軍の進路を示し、現地名と異なるものは現地名を()内に示す。以下の合戦図も同様。 
騰波の江駅  鳥羽の淡海は小貝川の両岸赤浜、大串の間にあったが今は関東鉄道線に騰波ノ江駅としてその名をとどめるのみ。
 
赤浜承和寺跡   野本は真壁郡明野町(現筑西市)赤浜に比定されている。此処には承和寺跡がある。この寺は東叡山承和寺と称し承和時代(834〜848)に最澄の弟子慈覚大師が創建。将門はこの寺を含む周辺を焼き払った。当時の地方在住の高官達が都を憧れ鳥羽の淡海を琵琶湖に見立て東叡山を比叡山と見ていた。赤浜に日吉神社跡もあり、琵琶湖の坂本にある日吉神社に対応している。赤城宗徳は野本を赤浜に比定する根拠の一つにこの点を挙げている。
 
石田(東石田より筑波山を望む)   野本で源護子息らの救援に駆けつけた国香を破り(源護の三人の息子扶、隆、繁は大串及び野本の戦いで亡くなる。)、残党を追って国香の本拠地石田(明野町東石田)を攻撃。この地は筑波山麓に広がる台地の上にあり、以前より国香の支配地である。国香はここで自殺したと伝えられている。将門は石田を焼き払い、更に源護子息の根拠地の一つであった取木(真壁郡大和村本木)をも焼き大勝利を得る。意気揚々と同盟者平真樹の本拠地大国玉を経由して鎌輪に帰る。
 
 大国玉神社  
   大国玉には大国玉神社がある。ここの案内板によれば何時創建されたかは不明であるが、承和4年(837)に官社となり従五位下を授けられた記録があるという。将門の后君の御前の父と言われ、同盟者である平真樹がこの辺り一帯を支配していたので、平真樹がこの神社を祭祀していたと推定される。
 砂沼風景(下妻市) 野本合戦は鳥羽の淡海周辺を戦場としたが、この沼は江戸時代に干拓されたと思われ今は広々とした水田が広がっている。当時は筑西市にある砂沼のような状態であったと想像している。 
 
国香は石田の居館で亡くなったが、自殺説と老衰説がある。将門記には記載がない。しかし国香の息子である貞盛が国香死すとの知らせを受け帰郷した際に「凡そ将門は本意の敵にあらず。これ源氏の縁座なり。……母は堂にあり、子にあらざれば誰か養わん。田地は数あり、我にあらざれば誰か領せん。将門に結びて……懇ろにせんこと、これ可ならん。」(将門記)として将門と対面しようとしたことからも将門は国香を殺していないと判断される。
国香の墓(平福寺・石岡市)   国香の墓と伝えられるものが石岡の平福寺にある。ここは国香を祖とする常陸大掾氏一族の墓があり、国香の墓もあると伝えられている。十数個の苔むした墓が並んでおり中央がそれか。
 
浄光寺(ひたちなか市那珂湊)   那珂湊の浄光寺にも国香の墓があると伝えられておりかつて桜の木の下から金壺が出土し国香の墓と書かれていたという。この近くの平戸(東茨城郡)に貞盛の居館があり、国香の別館があったらしい。しかしお寺で聞いてみると、古くからそうした言い伝えがあるとものの本に書いてあるようだが何処にあるのか分からなくなっているとのこと。寺の由緒書きによると1222年創起とあるので、その前に既に前身のお寺があったものか。
 

(D)川曲村(カワワムラ)合戦
 子供三人を全て失った源護は悲嘆に暮れており、源護の娘である良正の妻は夫に何とかせよと迫り、「良正、ひとえに外縁の愁いにつき、にわかに内親の道を忘れぬ。よって干戈の計らいを企て、将門の身を誅せんとす。」(将門記)将門はこれを伝え聞き、承平5年10月21日川曲村(結城郡八千代町野爪、下妻市赤須、桐ヶ瀬あたり)に向かう。ここでも将門は良正を撃破し鎌輪に引き上げる。良正は兄良兼に救いを求める。国香亡き後一族の長となっている良兼は良正と同じく源護の娘を妻としており、長兄国香、弟良正が将門に敗れ去るのを見捨てておけず、屋形村(千葉県山武郡横芝町屋形)の本拠地を出、良正の本拠地水守(つくば市水守)に馳せ向かう。先に同族間の争いを何とかしようと将門と和睦した国香の息子貞盛も、良兼、良正の意向を無視出来ず叔父達に味方し参戦する。
水守城址 水守の良正の営所はつくば市水守にある水守城址である。現在は小学校になっているが、舌上台地の先端部分に位置する。この辺りは水守古墳群のあるところで城内にも三個の円墳が見られ、その一つの上に櫓を建て西からの侵入を監視していたと伝えられる。写真に見られる石は馬を繋いだと言われる綱掛石。
 
野爪鹿島神社  主戦場となった野爪から赤須の地域は鬼怒川の氾濫原を囲む台地の端に位置する。野爪には鹿島神社があり、常陸十六郷総鎮守として奈良時代に創建された。ここの御由緒書によれば「承平5年5月将門の乱の戦火により社殿炎上す。将門記にある野本合戦は即ち之である。」と記されている。これを基に野本を野爪とする説があるが、先に述べたように野本を赤浜とすると、この社殿炎上は川曲村合戦の時承平5年10月となる。
 
赤須十二所神社より赤須村落方面を望む   野爪と桐ヶ瀬の間を現在は鬼怒川が流れ、桐ヶ瀬と赤須の間は田が続いているが、この辺りは所々が小高くなっており、この三村もやや高い位置にある。しかし田の部分は鬼怒川の氾濫原であり、当時は湿地となっていたと思われる。
兄良兼の応援を得た良正は勇気百倍再度将門に戦を挑む。良兼を大将に良正、貞盛軍は下野に向かう。将門はこれを聞き「実否を見んが為に、ただ百騎を率い……下野野国の境に向かう。実によると件の敵は数千許あり。ほぼ気色を見るにね敢えて敵対すべからず。その由何とならば、彼の介は未だ合戦の遑に費えず、人馬膏つき肥えて、干戈みな備われり。将門は度々の敵に摺かれ、兵具既に乏しく、人勢厚からず。敵はこれを見て、垣の如くに楯を築き、切るが如くに攻め向かう。」(将門記)といった有様であった。しかし将門が戦場に着く前に、歩兵をして攻めさせたところ人馬80余人を射とってしまう。良兼軍はこれを見て驚き逃げ出してしまう。将門はこれを追ったが、敵は国府に逃げ込んでしまう。将門はここで「常夜の敵にありといえども、血脈を尋ぬれば疎からず、氏を建つれば骨肉の者なり。いわゆる−夫婦は親しくして瓦に等しく、親戚は疎くして葦に喩う−と。もしついに殺害をいちさば、もしくはものの譏り遠近にあらんか。」(将門記)と考え、良兼一人を逃がそうと国庁の西の方を開いたところ千人余りの兵は籠を出た鳥のように逃げ出してしまった。将門はこの戦は良兼に非があることを国庁の日記に記し鎌輪に帰る。
  
 
 桐ヶ瀬遠景
 
 下野国分僧寺跡 下野国府は栃木県下都賀郡国分寺町にある国分寺あたりとされている。国分僧寺は発掘中で布で覆われているところが金堂跡。 
 

(E)子飼の渡し合戦
野本合戦に敗れた源護は朝廷に将門を告訴し、将門召喚の令状が承平6年9月7日に将門のもとに届く。将門はこれを受けて急遽上洛し公廷に自分の正当性を主張。公廷は兵を動かした罪はあるが将門に理がありその罪は軽いと判断され、折からの朱雀天皇元服の恩赦(承平7年4月7日)により無罪となって帰郷。
 良兼は将門が無罪となって帰郷したことに腹の虫が治まらない。一族の長としての恥辱をそそがんと帰京後静かにしていた将門を攻撃する。両軍は子飼の渡しで遭遇するが、良兼軍は高望王と良将という将門にとって祖父と父の像を陣頭に掲げ平氏一門の反逆者討伐を装うという奇策を用いた。将門はこれには閉口し「ただ楯を負いて還りぬ。」(将門記)良兼は将門の抵抗がないのを良いことに将門の領地である常羽の御厨、栗栖院などを焼いて引き上げる。この子飼の渡しの合戦で将門が苦戦をした時に善福寺の本尊十一面観音が妙見童子に姿を変え、川に落ちた矢を拾って将門を助けたと言い伝えがある。
栗山仏生寺(栗栖院跡) 良兼が焼き払った栗栖院は現在結城郡八千代町栗山仏生寺境内にある栗山観音堂の前身である。ここに安置されている薬師如来は平安時代初期の特色を示していると言われている。焼かれる前からあったものかその後直ちに造られたものかは不明。栗栖院が炎上した時多治経明の指示で臣下の横山某が観音像を背負って逃げた為に、栗栖観音堂には観音像が無いと言われる。
 
小貝川から吉沼方面を望む  子飼の渡しは吉沼(つくば市)と宗道(下妻市)の間にあったとされる。この辺りは鬼怒川と小貝川の氾濫により幾たびと無く流路を変えた後の湿地帯であった。宗道周辺は埋め立てられ、江戸時代に栄えた宗道河岸も窪地として残っているだけ。当時の面影を偲ばせるものとして小貝川から吉沼方面を望む写真を載せた。
 
湯袋峠西下より羽鳥を望む  良兼の居館があった羽織は筑波山麓にあり西側は当時としては実り多き農耕地が広がり高望王の子供達が勢力圏としていた。  
 
   

(F)堀越渡しの合戦
 祖父や父の肖像を掲げているのを見てこちらが遠慮しているのを良いことに、自分の領地である常羽の御厨を荒らしまくられた将門は良兼を恨み、このままでは武士の名がすたり今後の威信にも拘わると「偏に兵の名を後代に揚げんと欲い、また合戦を一両日の間に変えんとして、構えたる鉾・楯は三百七十枚、兵士は一倍(現代の表現では二倍)なり。同月十七日を以て、同郡の下大方郷の堀越渡に陣を固めて相待てり。」(将門記)良兼軍はこれに攻撃を仕掛ける。将門この時俄に脚気にかかり大して戦はないうちに敗れ去ってしまう。
大間木風景 将門はやむを得ず病を癒す為栗山、大牧(結城郡八千代町大間木)から葦津江のほとりに、妻妾を舟に乗せ隠し自らは陸閑に隠れる。良兼は坂道祖(猿島町逆井)に渡り、上総に一旦引き上げる素振りを見せ、これに釣られて将門の妻子が陸に上がってきたところを捕らえ、妻(君の御前?)を殺し妾(良兼の娘?)を引き連れて引き上げる。しかし妾の弟たちが妾を秘かに豊田郡に逃がす。
 
菅生沼風景  葦津江は江戸時代に干拓された飯沼の西岸と推定されており当時は一面に葦が繁っていた。近くの菅生沼の風景から当時の様子を偲ぶ。
「ここに将門が妻は去り、夫は留まりて、忿り怨つることすくなからず。その身は生きながらに、その魂は死せるが如し。」(将門記)
 

(G)弓袋峠合戦
 将門は叔父を宿世の敵として怒っていると良兼が常陸の国に来ていると知り、真壁郡に向かい服織(羽鳥)を焼き尽くし弓袋山に逃げ込んだ良兼軍を攻め、幾千の舎宅を焼き何万の稲穀を滅ぼしたが敵に出会えず空しく引き上げる。同年11月5日国の施設である常羽御厨を焼いた(堀越渡合戦)ことに対する追捕の官符が将門に下されるが、諸国の国司は良兼をかばってこの符に従わずうやむやに終わる。将門は鎌輪に帰り、その後本拠地を防衛上の都合もあって石井(岩井)に移す。
弓袋峠 弓袋峠は筑波山と加波山の間にある峠で北西に下ると良兼の本拠地羽織(羽鳥)の西に出る。「(将門)備えたるところの兵士は千八百余人、………常陸国真壁郡に発す。すなわち、彼の介の羽織の宿より始めて、与力・伴類の舎宅に至るまで員の如くに掃い焼く。一両日の間件の敵を追い尋ぬるに、みな高き山に隠れて、有りながらに相わず。逗留の程に、筑波山にありと聞きて員の如くに立ち出でぬ。件の敵は弓袋の山の南の谿より、遙かに千余人の声聞こゆ。………黄昏に臨めり。ここによりて各々楯を挽き……終にその敵に逢わずして、空しく本邑に帰りぬ。」(将門記)
 

(H)良兼の石井急襲
 良兼は将門が居館を移したことを知りこの機会を逃すべからずと、将門の走り使い丈部(ハセツカベ)小春丸を買収し、居館の様子を調べた上で騎馬隊で沼を避け結城寺経由石井を急襲する。しかし結城寺を過ぎる辺りで将門の部下に気づかれまたも将門に屈する。
結城寺跡 結城寺は結城市矢畑に奈良時代に創建され室町時代の中頃まで約七百年続いた大寺院で法起寺様式をもち国分寺に匹敵する規模を持っていたという。奈良時代には法城寺と称していた。「(良兼)その兵類は、いわゆる一人当千の限り八十余騎……風の如くに徹り征き、鳥の如くに飛び着きぬ。すなわち亥の剋をもて、結城郡の法城寺の当たりの路に出でて、打ち着く程に、将門が一人当千の兵ありて、暗に夜討ちの気色を知りぬ。……石井の宿に馳せ来たりて、具に事の由を陳ぶ。こに将門の兵は十人足らず。……将門は眼を張り歯を嚼んで、進みて以て撃ち合う。時に件の敵など、楯を棄てて雲の如くに逃げ散る。将門は馬に羅って、風の如くに追い攻めぬ。」(将門記)
 

(I)千曲川合戦
 石井を急襲し逆に失敗した良兼は居館で静かにしていたが国香の子貞盛は田舎での合戦に飽き飽きし、将門を倒すには中央の力を借りるしか方法がないと判断する。そこで承平8年2月に急遽都に向かう。将門はこれを聞き、今度は前回の轍を踏まじと貞盛の上京を阻止すべく貞盛を追う。2月29日に信濃国小県郡国分寺あたりで追いつき、千阿川(千曲川)を帯して合戦となるも、貞盛は山の中に隠れ捕らえることが出来なかった。「将門は、千般首を掻いて、空しく堵邑に還りぬ。(将門記)
その後将門は武蔵の権守興世王・介経基と足立の郡司武芝との対立を和睦せしめようとしたりしている。興世王は桓武天皇の子伊予親王の玄孫とも言われているが確かな系図にはない。しかし桓武天皇の皇子に世がつく王が多いので興世王も桓武天皇の系譜をひく皇子であった可能性が高い。(福田豊彦・平将門の乱)
 
 (J)常陸国衙を囲む
常陸国衙跡  常陸の私営田領主藤原玄明が官物を略奪し追捕の命が下ると将門の元に逃げ込んでくる。玄明は単なる私営田領主でなく東国と都を結ぶ輸送に関わりながら時に流通する物資を略奪したりしていたのではないか。(川尻秋生・平将門の乱)興世王も新足立郡司との仲が上手くいかず将門の元に寄寓する。一方良兼は病で亡くなる。
常陸郡司の玄明を差し出せとの命に将門は窮鳥懐に入らばの心境からこの命に従わず、逆に天慶2年11月常陸国衙に至り「件の玄明らを国土に住まわしめて、追捕すべからざるの牒を国に奉る」(将門記)と申し述べたが国は承引せず合戦となるがこれを破り鎌輪に帰る。
常陸国衙跡は石岡市の石岡小学校のあたりである。この当時常陸国司は赴任せず遙任として京都におり、留守所で目代が政治を執り行っていた。この名残として近くに小目代の地名がある。
将門記にはこの時の模様が次の如く描かれている。「世間の綾羅は、雲の如くに下し施し、微妙の珍財は算の如くに分け散りぬ。……三百余の宅姻は、滅びて一旦の煙となる。……定額の僧尼・官から供料を受けた格の高い僧尼・は、頓命を夫兵に請い、僅かに残れる士女は、酷き恥を生前に見る。」国庁の近くには嵯峨天皇の時代に建てられた常陸総社宮や国分僧・尼寺があり、上掲の定額の僧尼はこれらの寺の者たちでもあったか。戦いに敗れた目代は将門に印謚を提出し降伏した。
この段階から将門の立場は一族の私闘から全く新しい局面に移っていく。
国分尼寺跡