(3)将門の居館・営所
 (A) 守谷
守谷城址   守谷は相馬御厨の本拠地であり御厨番士の居所。相馬御厨の下司を任命され帰郷した将門は暫くここに居を構えたであろうが程なく鎌輪に移っている。
赤城宗徳は「将門の弟将頼は御厨三郎と称したことを見れば、ある時期に将頼を御厨の所在地守谷に駐在せしめたのかも知れない。次の弟将平は大葦原四郎と言われ、今の小絹辺りに居りこの兄弟が相馬郡を領地していたらしく想像される」と述べている(赤城宗徳 平将門)。守谷城は将門が常総一帯を平定し新皇と称した頃建てた館の跡とも伝えられている。
 
(B)鎌輪(茨城県下妻市千代川鎌輪) 
鎌輪から筑波山方面を望む   将門が守谷から自分の力で開拓を進めようと移った地が鎌輪である。鎌輪居館跡は千代川の鬼怒川を宗道方面に渡った処にある香取神社あたりと伝えられている。ここに立てられた千代川村教育委員会の案内板には次のように書かれている。
「当時鬼怒川は水量豊かに流れて三方を囲み、八十町歩の平坦な野場は肥沃で、都の腐敗を厭い農民の苦しみを看るに忍びず、相馬御厨下司職を捨てて大地を拓いて自ら生きんとしようとした公には最適の地であった。しかし叔父達の執拗な攻撃にあい、やむなく石井(岩井)の地に移り、悲運の最期をを遂げるが、こここそ平将門本願の地であった。」過酷を極めた残党狩りに、人は去り、社殿は焼かれ、千年の歳月はその遺跡を埋没してしまったが、公が本館の所在地は、古老の伝承によると大字鎌輪字館野(新宿地内)である。
  
 
居館跡に建つ香取神社 
 
(C)石井(岩井)
鳥広山   将門は鎌輪から承平5年石井の営所を築き軍事上の拠点とした。
鳥広山はその跡と伝えられ、今は民家の間のこぢんまりとした遺跡公園になっている。
将門は野本合戦、川曲村の戦いなど相次ぐ戦に此処から出陣している。
 
石井の井戸   石井の井戸は将門が居館築造の地を探し求めている折り喉が渇いて困り果てていると「水」と一声東南の方に聞こえて見ると一人の老翁が立っていた。やがて傍らの大石をさしあげて力一杯大地に打ち込むと妙味の水がこんこんと湧きだした。不思議に思っているうちに老翁の姿は何処かに消え去ったという。老翁を祀る一言神社と併せこの石井の井戸は「岩井戸の宮」として永く住民に尊び崇められてきた。「岩井」を昔「石井」と書いたのもこの井が中心をなしたものといわれている。(岩井市・現坂東市・観光強化説明板)
 
一言神社   上記のいわれを持つ一言神社は石井の井戸の西側にひっそりとたたずんでおり無住の神社である。
またこの神社は将門が石井営所を築造した際その守護神として建立したとも伝えられている。
 
富士見の馬場   富士見の馬場は将門が軍馬の調練をした馬場でここから霊峰富士の雄姿が眺められたのでこの名が付いた。市内の長洲には延喜式の長洲馬牧があって伊勢神宮に祭馬、祓馬を納めていた。またそのころ豪族達が私牧を各地に持っていて、将門が石井営所に入るとこれら官牧、私牧を支配して駿馬を集め、この馬場で調練の他馬市を開いたと言われている。(岩井市観光協会説明板)
織田完之によれば明治初期には大体6町(654m)、巾13間2尺(24.3m)あり左右に松並木が連なっていた。(平将門の古跡)