(1) 将門の生まれ育ったところは
 
  将門は桓武天皇−葛原親王−高見王-高望−良将に続く五代後の子孫である。尊卑分脈によれば高望が上総介従五位下の叙爵を受けた後平姓を賜うとあり高望から平を称するようになる。父良将は将門の若い時になくなるが母は犬養春枝の娘であり北相馬郡寺田町(取手市寺田)周辺に住み、そこで将門は育った。万葉集巻20に載っている県犬養宿弥浄人が下総の小目に任じられたという記録があり犬養春枝はその子孫ではないかと言われている。犬養一族は蝦夷と混血したらしく将門が蝦夷と親しくしていたことの背景はここにある。又俘囚系=蝦夷の血を引いていることから一族から軽視され、これが原因となって良将の死後一族から軽視され良将から相続した所有土地の侵略を招いたのではないか(荒川法勝 平将門伝)。将門はやむなく母から引き継いだ土地をベースに俘囚の支援も得て周囲を開拓し支配地を拡大していった。(将門の母は生家から自活権を得るだけの十分な後見や相当な土地・奴婢まであたえられていた。)

 惣代八幡 
   関東鉄道新取手駅の北、野々井中学校横の坂を上がったところにある。将門はこの辺りで生まれたと言われ(惣代八幡の地は将門の母相馬家のあったところで将門はそこで生まれたのだろう・織田完之著平将門の古跡)、守護神として篤く崇敬した神社と伝えられる。地元では八幡様と大切にされている。
 東漸寺 
   惣代八幡の近くにある東漸寺周辺にも将門がこの辺りで生まれたとの伝説があり、付近には将門にまつわる言い伝えが多く残っている。将門母の井戸というのもある。
 龍禅寺三仏堂
   将門は赤竜の子であると伝えられ、取手市米野井にある龍禅寺三仏堂の側で大蛇の母が将門を舐めていたとの伝えがある。この三仏堂は延長二年(924)伝誉大闍利創建、承平七年将門が修復したと伝えられている。将門が参拝した時に井戸の水が天まで吹き上がり続いて米が降ってきたので米野井と言い、これを奇瑞として将門が龍禅寺を建立したと伝わる。
 将門公苑
   石下町向石下の豊田館に生まれたとの説もある。(石下町観光協会)ここは石下橋を渡った南側にあり将門公苑として保存されており記念碑が建てられている。
   公苑には将門の一代記を記した巨大な記念碑も建てられており、日展参与宮地寅彦作の将門の浮き彫りもある。(浮き彫りに付いては後掲将門の顔付きを参照されたい)